京都新聞連載3年間を振り返る
2016/12/26 11:50 朝ごはん 昼ごはん 晩ごはん お弁当 お菓子 パン 作りおき お酒・おつまみ テーブルウェア キッチングッズ イベント お買い物 子ども 旅行・お出かけ 趣味 くらし 家族 健康2014年2月。
突然届いた手紙。何かの手違いとしか思えず、何十回読み返しても文面が頭に入ってこなかったことを思い出します。
あの日から3年。
先日の京都新聞さんとの節目の会。外部からの人間で3年という長期間、また、80回以上連載を続けられた人が見当たらないこと。ここまで来たら何とか100回は頑張って貰いたいといった理想は掲げていただきつつ、現実的には繊細なところで。
終わりというカタチをとらず、例えば半年や1年に1度、何でも良いから遠方から元気であることを報告したり、何か別なものに変化させるか、はたまたアス飯をそのまま存続させるかは分からないけれど、今後も関係は変わらず継続し、いつでも戻って来て欲しいといった有難いお言葉まで頂戴しました。そのお気持ちだけで十分。京都新聞さんには感謝しかありません。
ちなみに、おにぎり部長に至っては、夫の挨拶時、感極まって泣いていらっしゃった(笑)
それもそのはず。部長を始めとするアス飯に携わった全ての皆さんが、このコンテンツにどれだけの時間と労力を費やし、やっとここまで辿り着いたか計り知れないからです。
無知過ぎる道産子。農家生まれの野生暴れ馬を、言葉のスペシャリストたちが全力で囲い(笑)守り、ゼロから大事に育て、レーンに沿いつつも、そこそこ自由に走り回れるようになるまで根気強く待った。皆さんに生かして貰ったとしか表現しようがありません。
京都新聞さんから有次さんの銀杏のまな板をプレゼントしていただきました。お世話になっていたのは私の方ですが、有り難く頂戴させていただきました。来月の収録で、このまな板のお披露目をさせていただこうと思っています。
我が家からは、京都サンガのユニフォームを。代表して現運動部長にお渡ししました。京都新聞本社に飾っていただけるそうです。感謝!
今でこそ、私の仕事を応援してくれている夫。
しかし何事も一筋縄ではいかないもの。
当時を振り返ります。
「不器用な人。サポート(サッカー)と仕事、両立出来る?疎かにされると困る。ましてや、京都の歴史ある新聞社、しかも週一の連載だよ?」
突然のオファーに苦言を呈した夫。渋い表情からは、限りなくNOに近い心中を察することが出来ました。
しかし、矢の打ち間違えで飛んできたような話です。もともとあってないようなもの。100%チャレンジ精神のみでぶつかれる為、失うものが何1つとしてありません。
周囲の心配をよそに、まだ見ぬ記憶、未知なる世界に1人好奇心を掻き立てられていました。
それから間も無くして京都新聞本社へ伺うことになります。
面接を兼ねた初めての打ち合わせは、旧運動部のおにぎり部長(現写真部長)新旧アス飯担当デスクの4人で行われました。
私は、夫が横浜F・マリノス、川崎フロンターレ時代に2年間連載させていただいていたサッカーダイジェストテクニカルを持参。コラム(原稿)レシピ、栄養メモ、料理写真の4素材全てを自らで担っていたこと、校正には現横浜F・マリノスの藤井記者が入っていたこと、右枠には旬食材をピックアップしたコラム、左枠には3レシピを添付し、それぞれに栄養素のメモを。ボイス枠をつけ、夫の言葉も記載していた旨を説明しました。京都新聞さんからのオファー内容を察すると、おそらくこれに近い流れになるだろうと思ったからです。
余談ですが、初めての打ち合わせの時の皆さんの第一印象。
おにぎり部長は
「オオォォオ!!!:(;゙゚'ω゚'):随分と迫力があるな…(笑)」
https://yamaserieko.cookpad-blog.jp/articles/143977
旧アス飯デスクは
「シャキーン!ってサメみたいな感じ。怖そう(;´д`)」
現アス飯デスクが1番物腰が柔らかくて優しそうで和みました(๑˃̵ᴗ˂̵)(笑)
※2015年10月の紙面改革から国貞デスクに担当が変わりました。国貞デスクがアス飯の企画発案者。発案と同時に滋賀に移動になり、アス飯を旧岡本デスクへ託す形に。2年の月日を経て本社へ戻られました。アス飯というタイトルを考案されたのは岡本デスクです。
初顔合わせが終わって自宅に戻り、夫には再度決意表明をして何とか説得。最終的には後押しを得て、覚悟を持って挑んだ連載でした。
※当時の日記
ご報告
https://yamaserieko.cookpad-blog.jp/articles/114536?_ga=1.31791869.293249003.1446098232
掲載には雑誌サッカーダイジェストテクニカル連載時同様、4素材(原稿、レシピ、栄養メモ、料理写真)が必要でした。
週一スパンとなると夫の毎日の食事管理とはまた別に試作を行わなければならない。
水曜には大枠を組み、〆切日の金曜、もしくは土曜早朝に料理撮影。原稿は出来るだけタイムリーなネタを入れ、翌週火曜発売に安堵した瞬間には既に1週間後の発売に向けて動き出す日々の繰り返し。並行して毎週末には夫の試合も挟みます。
立ち止まる時間や余白はなかったものの、心は日を追う毎に潤いを増しました。読者の方を想像し、無心で動き続けられることに、幸せや生き甲斐を感じていました。
まだ連載が始まったばかりの頃、ゲラは自宅のファックスに流していただいていました。ここに担当デスク(赤ペン先生)からのコメントが。
拙い文章にも必ずお褒めの言葉をくださる方で、素人の私にとって、この3行がどれ程の励みになったか分かりません。言葉の力は本当に偉大。
あろうことか、つい最近まで文字数を勘違いして(文字数オーバー)原稿を出していたことが発覚。何で指摘してくれなかったんですかと尋ねてみると、何度も指摘したよ、山瀬さんが人の話を聞いてないだけ(笑)とチクリと刺された後「素材を生み出すのは容易でない。だけどあるものを削るのは簡単。」とサラリ。なるほどと思いました。
コラム題材についても、デスクが毎回ご提案くださっていました。現役の妻であるためチームとの兼ね合いが難しい。特に、サッカーに踏み込んだ内容は週末の試合結果、夫の近況、パフォーマンスによっても左右され、この辺りの繊細なバランスは、デスクと相談しながら、NGなのか、今行くところかを決めていました。
詰まったり、自分でも何を伝えたいかボヤッとした状態で原稿を出すと、必ず電話がかかってきます。そんな時でも否定されることは一切なく、核となる部分を尋ねられるだけ。
時には他愛のない会話から電話が始まることも。私からするとただの雑談。しかし、デスクからすると次のコラムの為の意図的な会話で、聞き耳をたてているのです。話の最中にデスク視点で「その話面白い」と思った瞬間「それ良いじゃないですか、今のを纏めてちゃちゃちゃっと書いてみましょう。山瀬さんならすぐに出来ます」と尻を叩かれ、スパンと電話を切られる。
つまり、知らず知らずのうちに脳内を探られ、取材されていたのです。会話からコラムに反映させる根となるポイントを見つけて助言されたり、場合によってはコラムの題材自体あまり面白くないから、また別の、読者の方が興味をひく題材へと次々に話をふられる。
完璧に甘えさせてくれるわけではなく、ここまでヒントを出したのだから、あとは自らで考えて書いてみようというスタイルの育成でした。
渦中にいると分からないものも、俯瞰すると流石言葉のプロだなと。懐に入り「人間」を見る新聞記者の特徴が節々に際立って見え、私はそこに、凄みみたいなものを感じていました。
コラム内容は料理や栄養に止まることなく、北海道話や習い事のバレエについて綴った回も。思い起こせば登場人物も無数にいたように思います。
文面に必ず四季を取り入れていたことは、自身の精神的支柱を反映させたものでした。忙しい日々の中、新聞を読むことで情景を思い浮かべていて欲しい。人生は春夏秋冬を巡るようなもの。私たちは本来、季節の移り変わりや自然の流れに沿って生きていくものなのだと思います。
「シンプルに、誰がどの角度から見ても分かりやすく」がデスクの口癖。言葉足らずの感覚的で荒削りな素材を、てにをはを整え、無駄を削ぐことで美しく。伝えたいことや本質を浮かび上がらせる手法を、いつも背中で教えていただいていました。
レシピに関しても同様。あしたのアスリート飯をうたっていますが、標準をそこに合わせているようでいて局所ではない。カメラのレンズで言えば「開放」と同じ原理。外側があるからピンが生きる。読者全体に想像力を持っていくよう、常々アドバイスされていました。そのお陰でレシピアイディアに詰まることがなかった。声がけの力も、身に染みて感じています。
素材を絞り出すのは私の仕事。しかしそこから組み立てに手を貸していただいている時点で既に自身の手から離れています。私の名前が代表で記載されているだけで、正しくは連帯作業が生み出した共同作品。読者の方に更なる成長を育んでいただくため「行ってこい、頑張ってこい」と、大切な誰かを送り出している時のような心持ち。
時に側近の立ち位置から夫を取材し、心をえぐりとったり、自身の不安定な心情をストレートに表現した回も。人は苦しい時に真価だとか、どう生きるのかを問われているような気がします。心を動かされたり感動が生まれるのは、良い時だけでなく、寧ろしんどい時の生き方、どん底の中で得る極限の志に響くことが往々にしてあります。
尋ねたことはありませんが、担当デスクは自由に伸び伸びと広く視野をとることで、固定されがちなイメージを良い意味で乱立させ、私という人物像に幅を持たせたかったのでしょう。異質さが生まれたのはおそらくこの為。
投書やお手紙をいただくことも多数ありました。過分なお言葉を頂戴しました。読者の皆様に心より感謝申し上げます。
こうして破茶滅茶の中で駆け抜けた1年。この頃、驚くような変化が生まれてきます。
2年目に入ると動画連動にまで発展。
人生、何が起こるかわかりません。
これまで「アス飯」に関して私が耳にしたのは、極めてポジティブな言葉のみ。ネガティブな情報は一切届きませんでした。きっとなかったわけではない。私を守るため、余計な心配をかけないために影で踏ん張る人がいて、それをこちらに見せなかっただけ。
いつも「あなたは凄い、反響がすごい、絶対できる、我々が山瀬さんを守るから。一連托生ですよ。」
そんな力強い言葉で背中を押してくださるので、私は何の不安を抱くこともなく、一直線に突き進むのみでした。
どうすれば愉しく、気持ち良く、夫のサポートと両立しながら仕事ができるのか。自分のことを犠牲にしてまで、私を想ってくれる方々の存在がありました。
真の人間愛を感じています。
北海道の母からは電話が来る度に、如何なる時も頭をあげないこと、謙虚に。と言われ続けていましたが、そもそも皆の力が集結した1つの作品。ここに携われた自負はあるものの、気張っているだけで自信なんか皆無。頭をあげる概念になんか、一生かかったって絶対にならない。
携わった全ての人のお陰であり、誰1人として欠けては成り立たないもの。未来のため、子供たちのために、手を取り合い、皆で何かを達成させていく最高の感覚を得られたこと、たくさんの絆を得られたことが、京都新聞連載で得た私の最大の宝物です。
節目として、京都新聞の皆様、読者の皆様に、心より感謝申し上げます。